草々不一

長文で書きたくなったことを保存します。誰かに届きますように。

SAOのBGMについて

 先日、ソードアートオンラインアリシゼーション編のアニメが始まった。SAOの音楽は梶浦由記さんが担当している。梶浦さんは他にもまどマギやFateZero、僕だけがいない街などの音楽を担当されている。個人的には僕街の音楽が冬感、過去感、ミステリー感があって好きだが今回は割愛しよう。

 

 昨今のFate人気で個人的にはすっかり「Fateの音楽」となった梶浦さんの楽曲だが、FateやSAOはバトルものであるため戦闘シーンの音楽の印象がやはり強い。壮大で盛り上がるものでありながら地に足をつけたどっしりとしたものを感じる。私は澤野弘之という劇伴作家が好きだが彼の音楽は宇宙の壮大さを想像する。一方で梶浦さんの音楽は例えばグランドキャニオンのような、大地の広大さを連想するのだ。それがFateやSAOに合っている。

 

 ただ自分はSAOの音楽では「smile for me」や「everyday life」、「the first town」といったもののほうが好きだ。これらはのどかな音楽で、田舎の村や町を連想する。こういった音楽が我々に与えてくれるのは旅の雰囲気なのである。SAOはRPGが舞台の作品である。自分はRPGの醍醐味は様々な村や町を経由しその世界を旅することだと考えており、これらのBGMは聞いている者を冒険している感覚にしてくれる。実際にRPGをやっていても村や町に入ったときに流れるBGMを聞くと安心し、人々が住んでいる雰囲気を想像できる。個人的にSAOにはこの感覚を求めており、「smile for me」のようなBGMはバトルものでない、RPGの側面を出していて好きだ。

 

 原作を追っていないためアリシゼーションが今後どのような展開になっていくかは知らないが、梶浦さんの「冒険している」と感じるような音楽に期待してアニメシリーズを視聴していきたいと思う。

二度あることは…

 トイレの蓋を開き、長い夜になると僕は悟った。水位はただ増え続け、流れることをしなかった。つまるところ、というかトイレが詰まっていた。

 

 それは課題を提出し終えた21:40の話だった。後は飯食べて寝るだけだと思い、晴れ晴れとして向かったトイレは、まるでパンドラの箱のように絶望を振りまいていた。夏休みが終わる前に掃除をしたはずだが、確かに最近急に寒くなったことでトイレを使う機会が増えた気がすると、あまり意味のない原因究明を終え、今後の対策について考え始めた。昨日のごみ回収で「水回りはお任せ!」と書いてあるマグネットを冷蔵庫からはがし捨てたことをこんなにもすぐ後悔することになるとは、と感動すらした。

 

 しかしこの状況に対して僕にはそれなりのアドバンテージがあった。というのもこの光景を見るのは今回が初めてではなく、実家で対峙したことがあったのだ。「ラバーカップ」というものをご存じだろうか。名前自体になじみがなくても目にしたことはあると思う。学校のトイレにある「スッポン」などと呼ばれる、先端に半球型のゴムがついた棒のことだ。これが実は優秀で、トイレが詰まってもラバーカップさえあればすぐに直せてしまう。問題はそれを売っているホームセンターがどんなに良く見積もってもどこも閉まっているであろう時間だということだけだった。

 

 それでも諦めきれない僕は24時まで開いているスーパーに向かった。正直ラバーカップなんてスーパーで買われないものランキングでTOP10に入りそうなものが売っているとは思わなかったので、秋になって出回っているスナック菓子「おさつどきっ」(おいしいのでぜひ)でも買って落ち着こうと思っていた。しかし予想に反してラバーカップは売っていた。今日ほどこのスーパーが頼もしいと感じる日は後にも先にもないだろう。レジにこれだけ出すのはなんとなく恥ずかしかったので他にヨーグルトと、もちろん「おさつどきっ」を握りしめ会計を済ませた。

 

 家に戻り、早速詰まりを直し始める。5分も経たずに詰まりは解消されひと段落つくことができた。せっかくだから掃除をすることにした。トイレットペーパーと洗剤を使ってトイレを拭き、周りをウェットティッシュクイックルワイパーで掃除した。一通りやって満足したのでシャワーを浴びることにした。風呂から出て「寒くなってきたし腹の調子も気をつけないとな」とヨーグルトを食べながらしみじみと思った。

 

 ウェットティッシュクイックルワイパー、これらをどこに捨てたか。これを思い知るのはもう一度トイレの蓋を開けた後だった。

最大多数の最大幸福

 トロッコ問題とは、トロッコが直進すると5人の人が轢かれるが、スイッチを押し進路を変えれば1人の犠牲に抑えられる、という利益と道徳を問う有名な思考実験である。しかしあの時僕は6人全員が助かる選択肢を模索した。その結末がどうなるかなんて想像できたはずなのに。

 

 

 未明、寒さを感じて目を覚ます。ベッドから体を起こすと寝る前には掛かっていたはずの布団がベッドから落ちていることに気付く。ほんの一週間前までタオルケット一枚で寝ていたため、布団の重さを不快に感じ、蹴っ飛ばしてしまったかと考える。布団をベッドの上に戻す。雨音がする。そういえばまた台風が来るらしい。こんな気温の中、台風のことを考えるのも不思議だなと思いつつ枕付近に手を伸ばす。スマートフォンを手にするためだ。しかしなかなか見つからない。寝る前何していたかなと考え始めたとき、暗闇に慣れ始めた目が他より僅かに黒いものを見つける。画面をつけるとまぶしい光を放ちながら時刻を表示した。AM4:00、なんとも言えない時間である。もう一度寝てもよいが、起きてもよい。そこでベッドから降りる理由を探す。小腹が空いていたので、これを理由に活動し始めることに決めた。

 

 スマホの光を頼りに台所に行く。紐を引っ張ると、二回点滅した後パッという音とともに蛍光灯がつく。その下でやかんに水を汲み、コンロでお湯を沸かす。コンロの火が心地よく感じる季節になったなと感じる。沸騰するまでの間にカップ麺を用意する。今回はカップ焼きそばである。以前は「どうせお湯を沸かすのに、お湯を捨てるなんてもったいない」とインスタントの焼きそばは避けていたが、今でははずれが少なく比較的安価なインスタント麺として重宝している。同時にお湯が余ることを想定してコーヒーを用意する。やかんから出る湯気を見て火を止める。カップ焼きそばにお湯を入れ、砂時計をひっくり返す。カップ麺の時間なんてあまり気にしていないが、砂時計をひっくり返すということ自体に満足感を得る。想定通りお湯が残ったので待っている間にコーヒーを飲むことにした。コーヒーには牛乳が欠かせない、というのが持論である。何も入れずに飲むと沸騰したての温度で飲むことになるのだ。きっとブラックが好きな人たちは舌をやけどしているから味がわからないのだろう、そんな馬鹿なことを考えているといつの間にか砂時計の砂はすべて下に落ちていた。

 

 お湯を捨て、蓋を開く。ここの工程でいつもうんざりする。蓋にキャベツがくっついているのである。箸を出し、キャベツを取る。しかし、ひとかけらがお湯を捨てるための穴に入ってしまいなかなか取れない。どれだけ食べられたくないんだよお前、とぼやきながら裏からつついたり蓋を折って引っ張ってみたりする。時間にするとものの数秒だったはずだが、不思議とものすごくおなかが空いていく。我慢の限界に達しとりあえず蓋を取ろうとした。しかし蓋は少しくっついたままで、勢い余って容器がさかさまになっていく。凝縮された時間の中、瞳で落下する麺を捉えながら「容器を置いてから蓋を取るべきだったな」と冷静に己の行動を振り返る。

 

 後には捨てたお湯とともに湯気を出す麺と、蓋についたひとかけらのキャベツだけが残った。冷静になった手元は、握りしめていた蓋から見事にキャベツを救出し、それを口へ運んだのだった。

(ネタバレなし)「Detroit: Become Human」についての考察

  2018年夏、世界を騒がせたゲームの一つに「Detroit」がある。これはクアンティックゲームが開発し、PS4で展開されたものだ。この会社は「ヘビーレイン」や「BEYOND」などのゲームを出しており、デトロイトで興味を持ったはずだが何となく既視感があるな、という人たちもいるのではないかと思うくらい他作品も有名作である。これらのゲームに共通してみられるゲームシステムとして「プレイヤーの選択により話が変わっていき、エンディングが変化する」というものだ。これはADV、つまりアドベンチャーゲームとジャンル分けされるゲームではメジャーなシステムだが、これを3Dモデルに行わせることで映画の中に入り込んでいるような楽しさを味わうことができるのがこの会社のゲームの特徴ともいえよう。

 

 さて、話をDetroitに戻すが、この話はヒト型のアンドロイドが社会の様々なところで人間と生活を共にしている近未来を舞台にしている。人間はアンドロイドを人間と同列ではなく心を持たない「道具」だと考えて扱っており、そんな世界で主人公の3人であるアンドロイドたちはどのような選択をして生きていくのか、といった内容である。これはSFとしては珍しくない設定でありながらもコンピューターが出てきて以来人々の想像を掻き立てつづける「ロボットはどこまで人間に近づくのか」というテーマであり、車の自動操縦や「50年後人間の仕事はロボットに~割とられる」といった話題がでている今、タイムリーな作品だともいえる。

 

 この作品では3体のアンドロイドをプレイヤーが操作し、プレイヤーの選択が他のアンドロイドや人間に影響を与えていく。この三体はプレイ開始時にはすでに警察の補助や老人の介護といった背景を持っており社会の中で活躍している。この点が作品を面白くしている一つの要因だと考える。というのは、今まで人間の道具として過ごしてきたアンドロイドの思考は、突然プレイヤーという「心をもった思考」に憑依され今後の選択をしていくことになるからである。主人公たちは作中で徐々に心をもち始め、人間と同じような思考を持ち始めるようになっていく。しかしそれは当たり前なのである。なぜなら主人公たちの選択はまさにプレイヤーという人間が行っているからだ。いわば道具としてのアンドロイドの中には、徐々にプレイヤー本人の心が芽生えるのである。この作品の妙はここにある。

 

 ADVは基本的に主人公の選択をプレイヤーが行い話を進めていく。しかしそれはこいつならこうする、この性格ならこっちを選択するだろうと「プレイヤーが主人公のキャラクターになったつもりで」選択するものだ。一方でDetroitでは心のないアンドロイドに自分ならこうする、こっちを選ぶと「主人公がプレイヤーの思考になって」選択する。これは今までのロボットやAI系のSFの中では異質なものであろう。今までのSFでは作者が「AIはこう思考し行動するだろう」と考えたものがAIの思考であった。しかしDetroitではプレイヤーの思考がアンドロイドを乗っ取り行動させた。これほどまでにADVのシステムにあった題材はないのではないかと思うほどプレイヤーを自然にゲームの中に取り込んだのだ。

 

 「これは私の物語だ」と、作中で主人公たちは語る。この物語を終えたとき、これはきっとプレイヤーの思いを代弁する素敵な言葉となるだろう。プレイヤーがロールプレイを超えた感動、本当に自分がDetroit世界に入り込んでいたのだと、そう思えるような体験ができることを願いこの考察を締めたいと思う。ちなみに自分はエアプである。

〇〇ロスに関する考察

 小説、漫画、アニメ、ドラマ。この世のすべての物語には終わりが存在する。これにより我々は1クール毎に、また最後のページや最終話を読む度に何とも言えない虚無感に苛まれるのである。特に気に入っている作品だと終わってほしくない、そう感じて最終回を観るのをためらってしまうこともあるだろう。

 

 確かに物語が終わってしまうのは悲しいものだ。本を読んでいるとき、アニメを見ているとき、そこにいる人々は考え、息をし、生活している。しかしそれが創作物である以上作者が続きを作らなければ登場人物は動かなくなってしまう。終わりが来てしまえばもうその登場人物とは思い出という形でしか会えなくなってしまう。

 

 物語の終わりの、その先を想像することは我々にもできる。しかしそれでは満足はできない、なぜならそこに驚きはないからだ。自分が想像する物語というものは、いくつもの選択肢のうちで最も自分で想定できるものにすぎない。だからこそ人々は他人の作る物語に魅了される。世界観や主人公たちの言動、物語内の空気に非日常感を覚え、驚き、高揚感を抱く。その世界が自分に新たな発見をさせてくれると期待できる。

 

 といっても物語を観ている最中、我々はその続きを想像するだろう。自分自身の将来のように物語に様々な可能性を敢えて見出すことで、作者に裏切られたときにその展開について考え意見を持ち、その差異を楽しむ。こうして己の中の物語への理解度とずれを認識し、よりその世界へ入っていく。

 

 そうやって覚えた親しみは物語の終了時に悲しみを増幅させるものとなる。しかし創作物の世界は決して自分の人生とは交わらないものだ。だからこそ決別のときが必要となる。物語を観終わってしまったときにくる虚無感は、自分が物語の世界から現実へ帰ってきたという感覚だともいえる。いわば物語の終焉とは、フィクションとノンフィクションの線引きをしてくれるものなのだ。

 

 だから今日も性懲りもなく物語に入り込み、人生を共にしよう。そして終わるとき、我々もまたその世界と決別しよう。物語は架空へと、我々は現実へと帰ろう。そのあとにはきっと今までと違った想いに心を馳せ、また次に出会う物語に心躍るはずだ。

 

 

こうして僕はHUNTER×HUNTERの5周目に入るのだった、いつか終われ

台風一来

 AM5:00男は決意した、今日実家に帰ると。これは彼にとって、青春18切符を使った京都旅行の予定を悉く台風21号につぶされた、せめてもの抵抗だった。台風に追いつかれる前に北上し、人間様の移動速度の前には「自転車並みの速度」ごときで移動する自然現象ではどうしようもないことを見せつける算段なのである。時刻表を検索すると7:30頃に発車する電車があるようなのでこれに間に合うように行動を起こすことに決めた。

  男の準備は順調だった。といっても本来台風が通過してから帰省するつもりだったため、事前に特に何か準備していたわけではない。洗濯機を回しシャワーを浴び、今日は台風だけど大丈夫なのかと思いつつごみを捨てに行く。その後服を真空パックに詰め、持っていく本や電子機器は机に出しておき、財布や貴重品はこたつの上に置いた。そして大きめのリュックに服から順に入れる。細々したものは案外移動中に使いたくなるので入れるのは最後のほうにする。そうこうしている間に洗濯が終わり、干す作業に移行した。

  準備も最終段階に入り、忘れてはならないものを手にする、輪行袋だ。そう、今回の帰省の目玉は輪行である。実家の周辺で行ってみたいところがあるため今回はロードバイクを持っていくことに決めていた。輪行袋を持ち、家中のコンセントを抜く。いよいよ準備は完了したのだ。

  駅までの移動手段は勿論自転車だ。家を出て、どのごみ置き場にもごみ袋が積んであるのを見て安心しながら進んでいく。早朝だからなのか台風の影響なのか気温がいつもより低く、ペダルを漕ぐ力が自然と強くなっていく。道中では制服を着た中高生を見かけ夏休みが終わったのかと思いつつ、世間では「平成最後の夏の終わり」とか言ってるが自分の夏はこれからなのだと、どこにぶつけるわけでもない対抗心を燃やし始めた。

  駅に着き人の少ないところで輪行を始める。今までほとんど輪行はしたことがなかったので慣れない手つきではあるが、着実にまとめていく。電車も乗れるが自転車でも移動できるという自由度の高さを想像し、作業しながら今後の夏ライフに心躍らせていた。空もこのあと台風が来るとは思えない晴天で男の旅路を応援しているかのようだった。

  「よし終わった」

無事にロードバイク輪行袋に入れることができ、一息ついて持ってきた緑茶を飲む。太陽も徐々に昇り気温も上がってきたようで、ペットボトルを買っておいたのは正解だった。だがゆっくりしてもいられない、電車が来る予定まで10分を切っているのだ。そろそろホームに降りるべきだろう。

  この後の男の気持ちは想像に難くないだろう。後悔、落胆、己への呆れ、意気消沈。様々な感情が溢れ出し、それでも多くの人は同じ感情を想像できると思う。なぜなら男の身に起こったことは誰の身にも起こりえることであり、また警戒することだからだ。男は改札に向かうため荷物を持ち上げる前に、リュックの上のほうに詰めた小物の中から切符を出そうとして、刹那よみがえる視覚情報。それは夏用にと布団が取られたこたつの上に置かれている青春18切符であった。とどのつまり、切符を家に忘れたのだ。

  計画の積み木が音を立てて崩れていく。それとともに男のやる気も消えていった。それはもはや内心などという隔離されたものではなく、横を通る全ての駅利用者に伝わるほどのものであった。目の前の柵にもたれかかる。下に向いた眼には乗るはずだった電車が停車し、人々を乗せ発車する光景が映っていた。空はまるで「台風など呼ぶまでもない」とでも言いたげなくらいの晴天だった。