草々不一

長文で書きたくなったことを保存します。誰かに届きますように。

僕はもう「碇シンジ」になれない

 小学生の頃、僕は魔法を使えた。廃工場に篭って大人と7日間戦った。タンスを開けてライオンと旅をし、指輪を捨てるために火山に向かった。宝石を集める旅だってした。ドブネズミにもフクロウにもなった。ホームズはいつだって、僕の思いつかないような推理を披露した。だからこそ1ページめくって喜び、その次のページで恐怖を感じて読むのを躊躇った。何が待ってるかわからない楽しさや恐怖がそこにはあった。僕の時間はページをめくる事で進んでいった。


 しかしいつからか僕は時計を見ていた。物語には終わりがあることを知っていた。ページ数を、シークバーを見て、自分が物語全体のどの辺りを読んでいるかを把握していた。起承転結のどの辺りにいるのかを意識するようになった。魔法を使うのはハリー・ポッターになり、僕は彼の戦いを感慨深く眺めていた。

 これは主人公に対して感情移入していたものが、次第に共感するようになったことが理由だと思う。僕は僕を認知してしまった。だから主人公の言動に対して「確かにその状況だったら君はそうしたくなるよね、わかるけど僕ならしないな」と、共感こそすれど感情移入はしなくなっていた。そして共感したいが為に理由を求めるようになった。登場人物の背景や性格、現状を把握して納得がいけば共感し、笑い泣くのだ。主人公そのものになって笑うことはもう出来ない。

 どちらが悪いということはないし、今更変えろと言われても無理な話である。昔嫌いだった作品も、今ではいい作品だと言える可能性もある。くよくよしている主人公が嫌いだったのは、「そんな奴に自己投影したくない」という感覚から来ていたのかもしれないし、逆に今許容できるのは「まあその状況なら仕方ないな」と共感できるからかもしれない。

 以上が、ある作品に対する感想の言い訳である。楽しみだった作品に対し非常に心苦しい評価をしてしまうのは「自分が歳を取ったから」と言いたいが為の文章である。

 


P.S.
 その作品になぞらえて「大人になった日」という題名にするのはベタすぎるのでやめました。シン・エヴァ楽しみ。